大文字として使われるカテゴライズの前に存在するもの

記憶のメモ帖 - 世代で語れない世代
http://d.hatena.ne.jp/kir_royal/20061001/p1
を読んで、ブックマークコメントで多少の皮肉を込めて

単に外部からひとくくりにされると内部の側は違和感を持つという類の話に過ぎないが、一方で「上の世代は世代としての同質性を保ってられるから」などと平然と言う鈍感さはある意味で示唆的。

というコメントを残したところ、
記憶のメモ帖 - 反論してもいいですよね?
http://d.hatena.ne.jp/kir_royal/20061004/p1
で反応があったので、それを読んだ上でざっくりと反応します。本当はコメント欄に書こうと思ったけど、長くなりすぎたのでこちらで。


まず、ブックマークコメントに対する真摯な反応ありがとうございます。あのコメントに関して補足するならば、恐らくあなたから見て上の世代にあたるであろう、75年生まれの自分から見たら「上の世代は世代としての同質性を保ってられるから」という言葉はあなた自身が言う「あんま単純化されてもなぁ・・・。」にあたるだろうという皮肉を込めました。それはあなたの目から見た、あなたが単純化して見ているカギカッコつきの「上の世代」でしかないでしょう。ちょうど、あなたが「第三世代」と括られてしまうのと同様に。


そして「示唆的」となぜ書いたかと言えば、少なくとも私の目から見て、あなたはカテゴライズを意識しすぎのように感じられたからです。だからこそ、あなたは曖昧なカテゴライズの数々に強く違和感を覚えているのでしょう。けれど、「オタク」「第三世代」等の様々なカテゴライズ以前として、あなたはあなたとして色々なコンテンツを消費し、また、知識や見識を蓄積して成長して今に至っているはずです。それは大げさに言えばあなた個人の歴史でもある。そこに何らかのカテゴライズを与える必要があるのでしょうか?少なくとも私にはその必要は感じられません。「上の世代の責任」を求めることも筋違いならば、「下の世代の責任」を感じて反省することもまた筋違いだろうと思います。


まず、「責任」というのは何に対しての「責任」でしょうか?「(上の世代に存在した作法が受け継がれずに)あるべき形にならなかった」ということでしょうか?しかし、もしそう考えるのならば、その「あるべき形」もまたフィクションであることに気付くべきです。その「あるべき形」というフィクションは主に「上の世代」の体験から発せられているものと考えられますが、しかし、それをあなた(を含めた他の人々)が絶対的なものと捉える必要は全くないでしょう。そもそも歩んできた個人の歴史が違います。一般的な意味でのオタクコンテンツに含められるサブカルチャー全般は、こう言っては何ですが、しょせんはジャンクカルチャーです。消費の作法なんてものは環境によっていくらでも変わって当然のはずです。そこに、全ての人々にあてはまる「あるべき形」があるわけがない。そもそもの話として、あなたが書いていた

こうして横の繋がりが断ち切れていき、コミュニケーションしやすい連中で固まりはじめ、その結果生まれた小さなコミューン(セカイ)が緩く繋がり*2、中心(主流)が無くなるのがネットワーク社会って奴ですが、中心がなくなるって事は規範(ルール)も意味や力を失うって事です。*3

にある「中心がなくなるって事は規範(ルール)も意味や力を失うって事」というのも私から見れば全くのフィクションです。その「中心」とはせいぜいのところ雑誌等の媒体あるいは評論家あたりなのでしょうが、そういったものを「中心」に据えていた人がどれだけいたかは疑問です。多くの人たちにとっての「中心」は、その人が思春期頃に属していたローカルなコミュニティだったと考えます。そしてそれは

SF研や演劇部とは名ばかりのヲタサークルにしょっちゅう顔出して「ソードワールド」とかのTRPGやったり、「マジック・ザ・ギャザリング」とかのカードゲームや同人ゲームの「QOH」とかやってた

というあなたと変わらないのではないでしょうか。ちなみに私も生物部とは名ばかりのところでよく『モンスターメーカー』とかやっていました。あと、クラスで『ソードワールド』やってたところにもちょっと混ざって、しばらく別のところで遊んでいたら仲間に殺されていました。いや、これはどうでもいい


もちろん、あなた個人としてそうした「あるべき形」を「上の世代」から学びたいというのならばそれはそれで自由だとは思います。世代の断絶に何らかの危機感を覚えるというのも、個人の考えとして何ら否定する気もなければ、否定しようのないことです。異質なものに興味を抱くのは大事なことでしょう。


しかし、たとえば

本当、野村総研のアレじゃありませんが、類型か非モテマップのようなオタクマップを作った方がいいですね

というようなカテゴリーの整理を求めるというのはただの権威を求める行為でしかなく、非常に不毛な欲望だと考えます。そんなカテゴリーを作って何の意味があるのでしょう?「自分はちゃんとこの位置に分類されるからオタクとして大丈夫だ」「あいつはこの要件を満たしていないからオタクには当てはまらない」などというくだらない差別化をするための道具に堕するのがオチじゃないでしょうか?


今、世間一般的な「オタク」の意味合いは非常に曖昧なものとなっています。いわゆる「オタクコンテンツ」に該当するコンテンツ、マンガ・アニメ・ゲーム等のどれかを好む人間は広義の意味では「オタク」に当てはまると言っても差し支えないでしょう。その場合、私もまたそこに当てはまる人間です。しかし、私自身の自意識としては「オタク」という自意識はなく、むしろ「オタクにはなれなかった」という自意識を持っています。それは、私の高校当時に『セーラームーン』が流行ったとき、周囲で熱狂していた人間が少なからずいたのに対して、私はどこが面白いのか、単行本を買ったりアニメを見たりしてもピンと来なかったという個人の経験に根ざしています(余談だが、人によっては、『セーラームーン』にハマったけれど、周囲の「オタク」たちは皆否定していたという人もいる)。なので、私は「オタク」という自意識は持っていないが、「オタクコンテンツ」に興味のまるでない人から見たら「オタク」として見られても決して不思議のない人間です。しかしそれはそれで構わないと私は思っています。持っている基盤が異なる人から見たら評価が異なるのはごく自然なことであり、そうした物の見方が存在すると受け入れるだけのことです。あなたはそれでは困るのでしょうか?


忌憚なく正直に思っていることを言えば、あなたの一連の記事からは上の世代に対するコンプレックスが感じられます。それ自体はある意味で自然なことだと思います。自分よりもはるかに年齢が上で、経験・知識・見識ともに膨大に見える人間を前にしたときの反応としては当たり前でしょう。「若者は、若者であるがゆえに歴史の堆積を憎む」という言葉もあります。けれど、そのコンプレックスから逃れるために、そうした歴史の堆積に服従してしまうのは誤りだと私は考えます。個人的な感情で言えば、過去を過剰に美化し権威化する年寄りと、手っ取り早くその権威にすがりつこうとする若者の共犯関係ほど醜くかつ後ろ向きで害悪と呼べるものはないとまで思います。少なくともあなたの場合はそうした権威にすり寄っているわけではないと思いますが、しかし、意識し過ぎのようには映ります。あなたが例え「第三世代」というカテゴリーに外側の視線から括られてしまうとしても、そして、その「第三世代」というカテゴライズに対する評価があなた自身にとってはそぐわない部分もあり、また納得の行かない部分があるにせよ、そんなものとは無関係にあなた自身の興味を可能な限りに広げていけばいいだけのことではないでしょうか?そして、その積み重ねがあなた自身の中に血肉としての見識を作り上げ、あなた自身の歴史を作り上げるのではないでしょうか?カテゴライズなんてもの以前に、まずあなた自身があり、そして様々なコンテンツが存在しているのですから。


少し長すぎたけど、そのクセ足らないけど、まぁ、こんなところです。