教養のあふれる世の中

まあ上の話で何が言いたいかというと、はてなブックマークでいっぱいブックマークされてた
「嫌なことも勉強するのがインテリ。好きなことばかりやって知識を付けるのはオタク」(銀狐)
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20050722190236/index.html
は俺からすれば的外れだなってだけのこと。

記事中のリンクとかも全部読んで思うのは、結局のところ「教養」に対する根本的な考えが違うなあってことだな。昔から漠然と思ってるが、知識なんてのはそれ自体では断片的な枝葉に過ぎなくて、それを積み重ねて体系的、多面的に物事を把握するために必要なものが教養じゃないのかと。

ドストエフスキーを知っていたところで教養があることにはならない。ドストエフスキーが書いたものがどのようなものか、それがどのような影響を与えたか、また、ドストエフスキーにいたるまでにどのような流れがあって、その流れがドストエフスキーにどのような影響を与えているのか、そしてそれを知った上でただ単に「俺知ってるもんね!」じゃなくて、その知識をいかに有意義に生かすことができるか、そこまで来て初めて教養じゃないのかと。

別に意義なんてのは金や権威や権力のことじゃないから「面白いなあ」だけでもいいと思うけど、少なくとも「え?お前こんなのも知らないの?」みたいなひけらかしの道具に使われるのは有意義ではない。もし「教養」の価値を取り戻したいなら「教養」からそういったひけらかし、ペダンティズムの手垢をぬぐい去って、「こういうことがあるんだよ。知ってるとより面白いでしょ?役に立つこともあるし」ってことを伝えていかないと無理だろうな。

「自分はあることを知っていて面白いと思ってる。できればこの面白さを他の人にも知ってもらいたい」があふれる世の中になれば自然と教養にあふれる世の中になるよ。