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吉田アミさんのこの記事からの一連の話を読んでて、やっぱりフラットな選択肢が膨大に並んでいると多くの人はわかりやすい基準によって選択してしまって結果として偏りが目立ちやすいんだろうなと思った。前にそれを裏付ける検証についての記事があったと思ったのでブックマークから探してみたらGeekなぺーじのこの記事だった。もしたった一つのものが当たりだとしたら選択肢が多いほど当たりを引く確率は低くなるから、選択に対しての迷いも後悔も生じやすくなるというのはとてもよくわかる話だ。要するにハズレを引きたくないから無難な方へ向かうってことだろう。


Geekなぺーじの記事での結論では専門的なエージェントを雇って選択を任せることを解決手段として提示していて、それはしごく当然とも言えるし、メディアはそう機能することを求められて、実際にニーズにも応えたり応えられなかったりしているのだけれど、それでもこれだけ情報が溢れると嫌が応にも多数の選択肢は目に入ってきて、その中から自分のセンスとやらを信じて自らの手で正しい選択をしたくなる欲望は溢れ続けるだろう。だから、「専門的なエージェント」でさえもやはり並列に並ぶ「専門的なエージェント」リストの一つでしかないし、そこに委ねて結果として失敗したと感じた場合は「このエージェントはハズレ」となる。


じゃあどこに逃げ道があるのだろうと考えると、どれかが当たりで他はハズレと考えてしまうこと自体が一種の錯覚だと捉えるしかないんじゃないだろうか。というか、実際、そういう考え方は錯覚だと思う。もちろん自分が今まで培ってきた感覚に基づいた評価基準というのは個々に存在しているわけだから、それに照らせば相対的に優劣は定まるんだが、それ自体があくまで「現時点での」価値観に過ぎないと常に留保をつけておけば多少なりともその錯覚からは自由になれると思う。要は、「わからないもの」は「わからないもの」のまま留めておく感じだろうか。


実際に音楽がそれなりに好きな人だったら、経験の浅い段階で買った名盤のよさがさっぱり理解できなくてそのまま放置したけど、数年たって部屋から発見して久しぶりに聴いたら「あれ、これこんなによかったんだ」みたいに感じるという経験はあると思うし、そうやって世界はいくらでも広がると知っていたらすぐに片っ端からハズレ認定して切り捨ててその結果無難なものにしか向かわなくなるなんてことは減ると思うんだけどね。まあ、自分の現時点での価値観に留保をつけることが怖くてそこに固執してしまいがちな人なんかだとそうやっていいと感じたものですらも「いや、そう思いこもうとしているだけだ!やっぱりこれはよくない!」みたいな合理化に向かってしまうんだけど。