「物語」とゲームの話についてのレス

タクティクスオウガについて
http://d.hatena.ne.jp/groon/20070826/1188098113
という記事に


「プレイヤーキャラクターは、プレイヤーの感情移入を受け入れる器であり、それゆえに空白な存在でなければならない。」"感情移入"という言葉をどういう意味、どの位置で使っているのか疑問。物語?ゲームそのもの?
http://b.hatena.ne.jp/number29/20070827#bookmark-5685813
とコメントして
はてブにレス
http://d.hatena.ne.jp/groon/20070827/1188144538
で応答を受けて、そしてそれに対するコメントです。


まず、

ディプロマシーとまったく同じルールで、国の名前がABCで地図が適当な単純図形である架空のゲームをプレイするとき、このゲームのプレイヤーはディプロマシーのときとまったく同じに振舞うでしょうか?答えはノーです。

「少なくとも俺は」と念のため断った上で言うなら答えは断然イエスです。舞台がヨーロッパではなく架空のハレポレ大陸でもやることは同じですし、完全に抽象的な記号でしかなかったとしても、ゲームのルールと戦略性そのものが同じならば、ゲームの勝利を目指して行動する点において振る舞いは変わらないです*1。もちろん、ノーの人がいることは否定しませんが、ことにゲームルールから「物語」を取り外して別の「物語」を置換可能なゲームにおいては、抽象的なゲームルールに知悉して勝利条件に対する最適解を追求する結果、「物語」からの影響は自ずと失われていくというのが妥当なところじゃないでしょうか*2。なので、その喩えは「物語とゲームそのものとの間に明確な線引きをすることは不可能です」ということを示すためのものとしてはとても不適切だと思います。*3


というか、まずあなた自身が
http://d.hatena.ne.jp/groon/20070811/1186763953
において

ロボットものとしてのオラタンが好きな人は対戦を嫌ってる場合がほとんどで、対戦ゲームとしてのオラタンが好きな人はそもそもロボットものとしてオラタンを見ていない場合がほとんど

と書いているじゃないですか。同じゲームであってもプレイヤーの追求するものが異なれば必然的に「物語」とゲームの関係は変わってくるものであるということをまず何よりあなた自身が実感していると思うのですが。


今回はあえて単純化しているということのようですが、それでも

ゲームの次元においてはプレイヤーは、ゲーム世界へプレイヤーが参入するためにゲーム全体の設計のレベルで用意された、ゲームの物語世界における意図的な説明不足の部分を脳内補完することによって初めてゲーム世界への参加者たりえます。

という命題にも疑問符を付けざるを得ません。物語世界を脳内補完などしなくても、そのゲーム内に用意された目的とそれを達成するために必要な手段を理解することでゲーム世界(というのは別の言葉で言い換えればゲームの構造ということですよね?)への参加者になるのではないでしょうか?それは必ずしも物語に依拠する依拠する必要はなく、プレイヤーキャラクターを含めたゲーム内の構造を抽象的に理解すれば済むことなので、極端な話、進行する「物語」とは無関係に抽象的に理解した目的を一つずつ達成していくという楽しみを得ることもできるでしょう。なので張コウがたとえ三回死んでも大した問題じゃありません*4


まあ、元記事を何度も読み返す限りでは、まず念頭に置いているのは「物語メディアとしてのゲーム」なのだろうとは思うので、その仮定を踏まえたものとするならば、この指摘はあなたの論のいくつかがその仮定から外れた領域にまで一般化して及ぶもののように書かれていることへの疑問ではあっても元記事の主旨を否定するものではありません。つまりこれだけ長々と書いておきながら些末な話なのですが、ただ、ゲームの楽しみの一つである「物語」を見る・体験する要素を大事に思う人、特に、文芸批評が好きな人というのは、しばしばその視点を拡大させすぎるあまりにアブストラクトなゲームの楽しさを無きものとするかのごとき論を展開することで、ゲームの中に潜在している多様な面白さを失わせようとしているのかと思わせることすらあるという点については指摘しておきたいです。


それと余談ですが、俺にとっての『タクティクスオウガ』というゲームは、ゲームの構造的な部分で好きだった『伝説のオウガバトル』の続編ということで期待していたゲームで、実プレイにおいては全体的なつくりが丁寧なことに好感を持てたということと、見かけの命中率よりも実際の命中率の方がどうも低く感じて、特に、高所から後ろを向いたユニットに攻撃しようとボタン入力した直後に、失敗だとわかる微妙なタイムラグのような動きが無性にムカついたことが印象に深いゲームでした。まあ全体的には楽しんだと思うけど、正直、ストーリーに関しては何一つ心に残らなかったので、「僕にその手を汚せというのか」という章タイトルが何だかこっぱずかしいなということ以外全く覚えていませんでした。

*1:つまり俺は『ディプロマシー』というゲームにおけるロールプレイの要素は余興としか捉えていないということ。

*2:ガチ度の高いプレイヤーばかり揃ったときの人狼BBSなんかがその典型。レジーナは食事を出さないし、オットーはパンを焼かないし、アルビンが売るのはせいぜい喧嘩くらい。

*3:念のためつけ加えておけば、「物語とゲームそのものとの間に明確な線引きをすることは不可能」というゲームも存在することは否定していない。例えば『逆転裁判』シリーズから「物語」を取り外してしまったら「異議あり!」のカタルシスが失われることによってゲームの面白さが大きく損なわれて無機質な選択肢型アドベンチャーゲームになってしまうのはまず間違いないと思う。

*4:全く関係ない。ふと言いたかっただけ。