島耕作はある意味少女マンガじゃないかと考えてみたが

いや、そんな説はないのだけど、以前からわりと思っていたことで、
少女漫画的日常 - やはり、乙女ちっくマンガも少女マンガに入れるべき。
http://d.hatena.ne.jp/nogamin/20061020/1161320236
を読んで改めて考えてみた。島耕作と言えば先週めでたく(?)4度目の最終回を迎えて課長、部長、取締役、常務を終え、来週から専務となる、中高年を中心に安定して高い人気を誇るマンガなわけだが、その内容は基本的にファンタジー。特に部長以降にやったことと言ったらフランス行ってワイン飲んで、福岡行って祭りに出て、なぜかレコード会社でディーヴァを発掘しておまけにそいつが実の娘、中国に行ったら現地の秘書とオフィスで抱き合い、インドに行けば偶然テロの犯人を特定する、そして唐突に大臣の座を打診される、本社ロビーでリストラされた元社員が自殺したときはちょっとだけブルーになって時代を憂うけれど、翌週には元気に笑ってイッツナンオブマイビジネス、そして今日も新しい女が勝手に寄ってくる。そんな超スーパーウルトラミラクルベリーベリーワンダフルヒーロー島耕作にリアルさを感じる人がいたら今すぐどこかの製造業の偽装請負の現場に連れて行ってワーキングプアの辛酸を舐めさせてあげるのが人の道であることは、徴農だとか言ってたどこかの大臣もきっと諸手を挙げて賛成するに違いないのだが、とにかくまあ、島耕作というマンガはファンタジーであり、現実離れしていることは伝わったはずだ。


そんな島耕作を、青いマンガ読みは真剣に批判し、スレたマンガ読みはネタとして笑い飛ばすのだが、しかし、現実に島耕作は新刊が常に平積みされる人気マンガであり、掲載されていない週のモーニングの売り上げは下がるという話も聞く。なぜそんなに人気なのかと考えると、それはやはり、どこまでも甘い甘いファンタジーを提供してくれることが保証されていることにあるはずで、その意味で島耕作はオッサンたちにとっての少女マンガと言えるのではないかと思うし、それはマンガ論壇的なバイアスに囚われたバカにした意味ではなく、フィクションとして健全な(という言葉もやや微妙なのだけど)エンタテインメントが提供されていて素晴らしいことだと思う。


ところで、冒頭に貼ったリンク先で引用されていた『マンガの居場所』での宮本大人

現実離れした少女マンガを楽しむ女の子の大半は、世の中のほとんどすべての男がろくでもないもんだなんてこと、男以上に具体的に知っているわけである。自分が生きてるこの世界にどんな不自由があるかだって、たいていの男よりよく知ってるわけである。だけど、だからこそ、少女マンガを読むのである。

という文章が、俺的には「あえて」的な誇張がまた別の少女幻想、女性幻想的なもの(女性は男のろくでもないところを見透かしているという感覚は男としてわかりやすいが、しかしそこには「見透かされていたい」という男の願望も入り混じっていると俺は思っている)に読めたのでちょっと気になって、この本を先週買ってざっと読んでみた。で、読んでみたらまあ引用部だけじゃなく全体の流れとして読むとそこまで引っかかる感じじゃなかったし、他の記事も合わせて読んで、マンガ論壇的なバイアスへのカウンターの意識も感じられて、わりと好感は持てた。


けれど、島耕作の話に戻して考えるならば、こうした現実離れなマンガを楽しめるかどうかということに、「現実はろくでもない、だけど、だからこそ」という論法がそぐうかどうかはやはり疑問に思う。フィクションの提示する甘いカタルシスは現実がどうかという話とは全くの別問題として成立していて、そして、それが受け入れられるかどうかは、ファンタジーを提供する側の技術と、それを受け入れる側の素養によって決まるだけのことじゃないかなと思う。少なくとも俺はすごいヒーローが活躍するようなマンガいくら読んでもそれを現実と対比させることもなければ、己の身と比べることもなく、ファンタジーはファンタジーとして楽しんで読める。もちろん、違う読み方をするべき内容のものならまた違う読み方をする。


そしてそう考えると、リンク先での

「この地上の世界から5ミリくらい浮き上がったところに世界を作り上げること」

というのは何も「少女マンガ」に限定された世界ではなく、フィクションとして、エンタテインメントとして当然あるべきものにすぎないのじゃないかと俺は思う。ただ、批評の世界ではそうした、言ってしまえば「取るに足らないファンタジー」を評価することができないだけの話じゃないだろうか。だとすれば、こうしたファンタジーを描くのが少女マンガだと考えることもまた「批評」というバイアスに囚われている狭い見方であり、やはりなお「少女」という枠に縛られていると考えることもできるんじゃないかと思う。


長々と書いていたわりによくわからないところに着地してしまったが、一つだけ確実に言えるのは、現実離れした甘いカタルシスを描くフィクションもまた当然価値があるということで、もしそれを端的に示す言葉として一番近いのが「少女マンガ」なのならば、やはり島耕作は少女マンガなのだろうということだ。そして蛇足だが、そうしたファンタジーを排除してきた「リアリティ」に対する幻想についてもまた考える必要があるのかもしれない。まあ、それはまたいずれ。