知人の死と他いろいろ

中高の同期が亡くなった話を二ヶ月ほど前に書いたが、先日友達に電話をして再びその話をした。結論から言えば、自殺だった。


亡くなった同期は某私立大学の小児科医だったが、おそらく激務のためだろうか、数年前に鬱を患い、それに合わせて職務は軽減されていたが、亡くなる半年ほど前から全く出勤できず、そのまま自らの手で命を断ったということだった。ちなみに、小児科医がいかに激務かは軽く検索してみるだけでもその一端がうかがえるので、気になった人は軽くでも調べてみるといいと思う。


最初に聞いたときの死因が突然死という曖昧で死因ではない死因だったので、その可能性は十分にあるだろうとは思っていたが、実際に聞くとやはり何とも言えないものがある。それを選んでしまったのは彼であり俺ではないが、しかし、ちょっとした偶然や決断の積み重ねによってはそれは彼ではなく俺であったかもしれない、そう思う程度には彼は他人ではなく、遠い世界の話ではない。


友達がその事実を告げた直後に、最近NHK少子化問題について取り上げている番組を見た話を始めた。その番組の中で、子供を作らない理由として産休や育児休暇を取ることで職場に迷惑をかけるという罪悪感を挙げていた人がいたらしい。仕事を休むことが罪悪感となり、その罪悪感が本人を追いつめていく悪循環。働かないことは悪としてニート(という概念を持ち出した上で)をことさらに糾弾する姿と繋がっているなと感じた。


俺の場合はとうの昔にドロップアウトしたおかげで、パラサイトシングルと呼ばれようとニートと呼ばれようと知ったことはないとやり過ごすだけのタフさを身につけることができて、おかげで職も転々として途中ネトゲ廃人で一年間ネトゲ中毒になったりしたこともあったのだけれど(それはそれで色々まずいけどな)、そうも行かない人はたくさんいるだろうし、世間や社会からのプレッシャーを強く受けてしまう人は多い。ていうか、そういう圧力って昔より小さくなったと思っていたふしがあったのだが、そんなことはないということをネットを通じて知ったというところはある。そうした圧力の中にいる人がそこからの「脱落者」を声高に罵って自分を守っているように見える姿も珍しくないしね。



この話とは別の話題で、最近の風潮に過剰に安心や快適さを求めて、ストレスを少しでも遠ざける傾向があるという話があった。安心や快適さを求めるあまりストレスに過敏になってストレスへの耐性がなくなり、そして些細なストレスからよりいっそうの安心や快適さを求めるようなところがあるんじゃないかとかそんな話。こでも安心の基準はないからどこまで行ってもストレスは生まれる。これでもかと危機を煽るの好きだしね、世の中。監視社会なんかにも繋がりそうな話だ。


話していた友人は心療内科医を務めているのだが、不安障害の患者さんはもう何もかも不安になって大変らしい。歯を磨いても不安、磨かなくても不安、といった具合に。保険のCMを見て不安になって、保険に加入するために通院をやめてしまった例もあるとか(通院してると保険に入れないらしい)。


彼の仕事も大変そうだったが、それでも経験を積むことで少しずつ余裕が出てきたみたいで、それが我が事のように嬉しく、そう言ったら彼もまた喜んでくれたのがこの日の電話の何よりもの救いだった。人生いつ終わるかわからないだけに、何より、ね。