コミュニケーションのために動員されるノスタルジー

PARCOのウェブサイト上でも見れるが、PARCOグランバザールのCMでスーパーマリオがアレンジされたものが流れている。アートディレクター、田中秀幸がやってるのか。へー。


正直なところ、このCM見たとき「うえー」って思ってしまった。いいかげん食傷。胸焼け。胃のもたれ。胃酸過多。誰かあたしに胃薬頂戴。


何がいやかというと、単純にノスタルジー過剰がうざいとか、俺はMSX育ちだからスーパーマリオは友達の家でしかやってなくて8-2までしか行ってないんだよとかでもなく、大した思い入れのない人たちでも懐かしむことの出来る、薄く広い共有装置としてのノスタルジーという部分に苛立ちを覚えてしまうのだ。何というか、お手軽消費サプリメントにもほどがある。


実際のところ、今の世の中では薄く広く共有させて他愛のないコミュニケーション*1によって消費させるという手法は宣伝戦術としてとても有効だ。成城トランスカレッジ!-『波状言論S改』刊行記念トークセッションまとめを読んでいてもそのことを感じた*2。ノスタルジーはそうしたコミュニケーションの媒介として機能しやすいというだけで、別にノスタルジーを帯びていないものでもそうした形で機能するものは他にもいくらでもある。例えば、「魔人探偵脳噛ネウロ」のセリフ改変コピペなんかはその過剰さからそのように機能している。それはそれとして特にどうとも思わない。商業的に見れば新しい作品にそういう形で注目が集まるのはいいことだしね。かと言ってこればかり狙って過剰さがインフレを起こしてもうんざりだけど。


薄く広く共有されるノスタルジーの何がいやなのか掘り下げて考えてみると、共有という形で伝達されることによって特に思い入れのない過去の事象が特別なものにすり替わったり、場合によって後から伝達された知識がまるで実体験であったかのように捏造される(まるでファンタゴールデンアップルが昔から存在していたかのように)ことを警戒しているんだろうと自分で思う。


それと年代的な話で、ちょうど俺の年齢である30歳前後をターゲットにしたノスタルジーものがよく目について気になるというのもある。例えばゲーセンだと北斗の拳ドラゴンボール格闘ゲームが立て続けにリリースされて、今度はキン肉マンも出るし、ナムコドルアーガの大型筐体ものを予定している。なぜかワルキューレまで登場。スーパージャンプを始めとした集英社青年漫画誌やコミックバンチには昔のジャンプの人気マンガの続き物が揃っている。コンビニに行けばビックリマンが売ってる。その安易さと、まだ大した年齢でもないのに過去にばかり向かうような後ろ向き加減が好きになれない。


さらに突き詰めて考えるとこれは俺個人の嗜好として、誰でも簡単に共有できるような薄いノスタルジーなんて退屈だというのもある。そんなものでコミュニケーションを取るくらいだったら一人で遊ぶほうを選ぶ。共通している部分を互いに確認し合うよりも、共通しているようで異なる部分を見つけ出すほうがよっぽど楽しいし。


とは言えそうやってノスタルジーに浸って一緒に過去を懐かしむ行為そのものは否定しているわけじゃないことは強調しておきたい。それはそれで楽しい。ただ、どうせそれをやるんだったら、もっと簡単には共有できない内容で「そんなの知らない」と片っ端から言われたあげくにようやく出会えた選ばれし者と共有したいね。言うなればノスタルジー・エリート主義。何がエリートなんだかさっぱりだけどな。

*1:厳密にそれがコミュニケーションと呼べるものかどうかはここでは問わない。

*2:例えば、閉塞感から保守的な態度に向かうという考察などから。