「内輪ネタ」


■ 19:27
めちゃめちゃいけてるのテロップで『安達祐実「あま〜い!」』ってのがあって、それを見た時俺は、内輪ネタだなぁ、とおもったけど。よくかんがえたらそれは大衆娯楽だった。メインからどん外れの俺からあれなのか、見たら通じる人が多いかすくないかの、Maijoリティかマイノリティか野あれで、よくわからんけど言語化希望。
このことをときどき考えていたのだけれど、笑いってどうしても前提となる知識や価値観が要求されるから、笑える人と笑えない人が出るのは仕方ない気がする。めんどくさいからあまり突き詰めてないけど(考えていたとか書いてるくせに)、とりあえずこのへん参考。天丼とかはまた違う気もするんだけど。

笑いは構図(シェーマ)のずれであると考えられている。例えばコントなどで滑って転ぶ政治家が演じられて笑いが起きたとすると、「政治家は真面目で威厳ある人で、滑って転ぶことなどありえない」という構図を受け手が持っていて、それがずらされたことによって笑いが起きたことになる。しかし受け手の常識が「政治家に威厳があるとは限らない」「滑って転ぶことは意外な出来事ではない」「政治家が転ぶというネタは目新しいものではない」などを含むものだった場合、構図のずれが発生しないため笑いは起きない。同じ出来事に対して笑いが起きるかどうかは受け手の持つ構図に依存すると言える。
そんでもってそれを前提にすれば、「内輪ネタ」という批判は、笑いの構造上避けられないとも言えるし、逆に、構造的な問題だから不当な批判だとも言える、はず。ただ、内輪ネタであってもそれを知らない人が「知らないけれどなんだかおもろい」と笑うことはあって、そこで問われるのは語り口なんだろうと思う。「他ならぬあなたに向けて語りかけてます」感。
でも、「内輪ネタ」をつまらなく感じさせるのは受け手の問題もあるだろうなあ。知らないこと、興味のないことに対してひたすら拒絶の構えを見せるか、わからなくても受け入れようという態度で臨むか、それだけで大きく変わってくるはず。だからこそテレビ収録で観覧客を入れるときは前説の人が場を暖めさせるわけで。
 
ええと結論、前戯は重要。