例えばこんな認識


四方田 カルチャーのヒエラルキーの解体が急速に進んでいて、ハイカルチャーだった哲学、文学、美術も、サブカルチャーだった映画、マンガ、アニメも、すべてのジャンルが平等になっている。それはしょうがないのかもしれないけれど、この平等化が文明を進歩させているとは思えない。
坪内 一方で、サブカルチャーの認識もズレてきてる。学生と話していると、「明治の文学」って「サブカル」なんですよ、マニアしか読まないから。「サブカルでシブいぜ」みたいな(笑)。じゃあ、何が「サブ」でないメインカルチャーかというと、『ドラゴンボール』みたいな皆が読んでるマンガ。我々の認識でのオタク・カルチャーが、いまやメインカルチャーなんです。だから、学生が正岡子規の話をしているのを知らない人が聞いて「おっ、最近の学生は本を読んで感心だな」と思っていると、誤差が生じる。学生にしてみれば、正岡子規はシブいサブカルチャーにすぎないから。
四方田 古典を批評的にサブカル化して、文化の転覆を図ろうという意図はそこにはないんだ。
坪内 ないんです、そういう四方田さんの『クリティック』(冬樹社、一九八四)みたいな戦略は(笑)。単に自分のよく知らない、少数派のものがサブカルなんですから。
カルチャーのヒエラルキーの解体が急速に進んでいるというのはすなわちハイカルチャーの没落であるのにもかかわらず、「古典を批評的にサブカル化して、文化の転覆を図ろうという意図はそこにはないんだ。」という言葉が出てくる不思議。アクチュアリティの失われたハイカルチャーの古典を今現在において批評的にサブカルとして扱うというのは文化の転覆を図るどころかかつての文化を取り戻そうという反動的な試みになってしまうのではなかろうか。古典的教養主義も、そのカウンターもいい加減退散して欲しい。それよりは、ヒエラルキーが解体された後のカルチャーの再構築の試みとして、古典を今ここにアクチュアリティのある存在として再発見するほうがよっぽど面白い。

とここまで書いて、それはBeltorchiccaのdemiさんが非モテの文化誌でやっていることが当てはまるなあと思った。demiさん自身は「ヒエラルキーが解体された後のカルチャーの再構築の試み」なんて大仰なことを考えているつもりはないだろうとも思うが。