陽水の快楽―井上陽水論

陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

仮面舞踏会に入って行くときにはすべてが目新しく見える。しかし、いずれはこの目くるめく色彩の群れすべてに向かって「美しい仮面よ、私はおまえを知っている。」と言い得る時が来るものだ。
(『婦人の肖像』)

 このディスクールは、青春喪失というロマンティシズム*1ではなく、むしろロマン的世界の挫折*2、を表していると見ることができる。<世界>の入り口に立っているときには、<世界>は、その奥底に恐るべき魅惑を秘めた、欲望の対象として現れている。だがいったんこの<世界>を通り過ぎてみれば、わたしたちはそれが何であったか*3を言うことができるわけだ。
 この「通過」の経験は、そこを通り過ぎた大人にとっては、青年の<世界を知りたい>という渇望に対する貴重な解答であるように見えてくる。だから、大人の、「美しい仮面よ、私はおまえを知っている」は、彼が青年に対して優越感を持ってちらつかせたい<真理>のようなものになる。したがってこの<真理>がまた、大人の言説の欲望を強くそそるものとなるのだ。
 つまり、青春の喪失を自己哀惜の形で歌うことが一つのロマン主義的定型であるとすれば、そこを通過したのちに、「美しい仮面よ、私はおまえを知っている」と苦虫を噛みつぶすのもまた、ロマン的世界の挫折という<物語>的定型になり得るのである。

http://d.hatena.ne.jp/number29/20050731#1122830862の一件でこの文章を読みたくなったので購入。本文ではこの後に、陽水の「あこがれ」がそうした定型にはまり込まずに、喪失した世界への憧憬を歌い上げていることについての説明が続く。

ちなみにこの本の最初の刊行は86年で、俺がアマゾンのマーケットプレイスで買ったちくま文庫版は99年に出た文庫版だが、すでにアマゾンでも紀伊国屋書店でも在庫はなくなっていた。著作権と文化の保護とビジネスの現実という言葉が頭をよぎる一瞬。

*1:本文では「ロマンティシズム」に傍点

*2:同、「挫折」に傍点

*3:同、「何であったか」に傍点