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珍しく早起きした。と言っても、いつもより遅く仕事に出る日にいつも通りに起きただけなんだが。せっかくだから時間がある分だけ日記を書く。


仕事中とかにネットを見てて、あれこれと感想が思い浮かんで、後で時間があったら何か書こうかなと思うんだが、そのうち7割はどうでもよくなっているか忘れている。そうしたことはそのまま書かないでいる。きっと、どうでもいいことなので。どうでもいいというのは少し違うか。限られた時間の中では優先順位が低くてやり過ごしても気持ち的に差し支えないことがら、と言うのが正確かもしれない。これを「どうでもいい」の一言にまとめてしまうと、究極的には日々の最小限の生活から外れた部分は全て余剰であってどうでもいいことの山になってしまい、それは、「暇つぶし」という言葉が内包する価値観に従属してしまうので、「どうでもいい」という言葉はできるだけ避けた方がいい気がする。あと、「どうでもいい」はネットにおいては「そんなもの本気出して考えるようなものでもないけど一言言っちゃうよ」の意で使われることがあまりに多いからな。

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先日多磨墓地に墓参りに行った。多磨墓地じゃなくて多磨霊園が正しい名称だが、幼い頃から多磨墓地と呼んでいたので多磨霊園という呼び方は未だにしっくり来ない。けど、今は西武多摩川線の駅名も多磨墓地前から多磨に変わってるんだなー。時代は変わる。もっとも、駅前のほんの申し訳程度のアーケードなど、おおむね昔と変わっていなかった。前回墓参りに行ったのはたぶん祖父が亡くなった後の法事のときなので、二十歳かそこらのとき。当時の俺は某ゲーム雑誌に投稿しまくっていて、「祖父の葬式の坊さんがサーファー坊主で日焼けにピアスだった」みたいなネタを送った記憶があるので、二十歳くらいと考えて間違いない。こういう思い出し方もどうかと思う。


墓参りの後、家族で昼食を取り、色々話す。自分の祖先の話というのはルーツ話として非常に楽しい。うちの墓にはなぜか上杉笹の家紋が彫られていて、うちは元を辿ると上杉と縁があるのかと都合のいいロマンを親父と楽しむ。しかし、うちの祖先は曾祖父が明治の初めに東京に出てきて、その前は大分の方の寺だったらしいので、上杉はちょっと遠いんだよな。まあ家系図もないし曾祖父の時点ですでに分家だから妄想は自由に楽しむ。


それ以外にも色々歴史話をしていたのだが、親父が持っている地図帳の話を少ししたときに、母親が「googleみたいなの?」と言い、あらためてネットの浸透度を実感する。うちの両親はネットは最小限の情報収集以外には全く使っていないが、だからこそそういう人たちへのネットの情報の浸透度が計れて面白い。前にちょっと驚いたのは、MXテレビで夕方にやっている岩井志麻子とかが出てるワイドショーの録画を見ていたときに、誰かのブログが炎上したニュースを取り上げていて、それを見ていた母親が「炎上したのは〜だからじゃない」とかさらりと口にしたときだった。炎上とかさらりと言ってるよ、おい。しかも、炎上する側に問題があったという認識だし。一昔前のステロタイプな「非ネットの人のイメージ」だと、炎上という現象が発生するネットの環境そのものを怖がるような態度こそが典型に思えていたが、やはり時間がたてばそんな認識も古くなるということか。ネットの使用の有無にかかわらず、ネットの存在そのものはすでに日常であって、その中にいる人も同じ人間だという認識は無意識に浸透しているのかもしれない。むしろ、ネットの側にいると自認してしまっているような人こそそういう浸透に対して鈍感になってしまうのかもね。

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昼食後、母親は家に帰り、親父は新宿に信長の野望革新のパワーアップキットを買いに行き、俺は所用でアキバへ。ちょうどCAVE祭りだったので虫姫さまふたりのDVDを購入。その後久しぶりのHEYで色々遊ぶ。BATSUGUN SPで8面ボスまで行って気をよくしたが、その後はどのゲームをやってもボロボロで無様だった。特に、虫姫さまひとりオリで4面途中でひどい死に方をして呆然としていたらオプション全部画面外に落としてしまったり、ふたりオリで普通まず死ぬことのない、動かずに撃ってれば倒せる5面中ボスで死んだりと珍プレーを量産してしまった。ひどすぎる。

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何か、話に聞いていない細かい仕事が増え始めてるんだけどー。そろそろスーパー無職タイムを満喫したくなってきた。しかし、今月から来月にかけて新しいPCとシャープのHDMI対応24インチ液晶モニタとXbox360エリートを買うので、いつまで働こうか。3月末までが無難なせんだが、360エリート買うと同時にスーパーエリート無職タイムを楽しむというのもありかもしれない。金も時間もなかったら借金して働かないという選択肢は普通にありだと半分くらいは本気で思っているのだが(残り半分くらいでは、その後なんとかなるだろうという担保は一応あっての話だけど、と思っている)、まあ、人に勧めるべき提案ではないしな。

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ちょっと前に『らき☆すた』の最終回を見た。EDの『愛はブーメラン』が鐘の音まで入っていてオマージュしていることをとってもわかりやすく示しているのが露骨である意味親切だなと思った。しかし、あれ見て素直に喜んでしまう30代オタクはある意味で業が深いよな。ネット上での色んな反応を見てて、たぶん若い年齢だろうと思しき人による掲示板への書き込みで「現実へ帰れなんて言われなくたって見終わってテレビ切ったら現実だよ」というものがあったが、確かにそれもその通りで、現代オタクの消費共有的なはしゃぎぶりにはその一方でそれが空騒ぎにすぎないことを半ば自覚した、醒め切った諦念みたいなものが潜在しているのかもねとちょっと思った。


けっこう前からニコニコ動画を見るようになって、あるときふと思ったことなのだが、あの擬似実況システムは実際の書き込み時間の時系列はそれほど重要ではなく、実際には3年とかの長い間が空いていても(そこまでサービスが存続するとして)、動画上に流れるやり取りではまるでリアルタイムに言葉を交わしているように見えてしまうわけで、それはつまり双方向なやり取りに「見える」というだけであって、実際にはどれも一方的に言いたいことを言っているだけでも大差ないということだった。つまり、コミュニケーションはあまり重要じゃないということ。極端な話、世界に自分一人きりになった世界で自分以外の書き込みは全て自動スクリプトだとしてもいいわけで、そんな世界でたった一人最後に生き残った少年がニコニコ動画で「とかち」とか「きしめん!」とか「ミッキー切ったりミッキー切ったり」とか書き込んでいる姿を想像するとちょっとうっとりするものがある。


そう言えばずいぶん昔、まだテレホタイムが存在していた時代に、「実際の書き込み人数」を表にしたコピペがあったことを思い出した。ピークの0時前後で10人くらいで、テレホ外のところは「自動スクリプトによる書き込み」みたいなことが書かれてるやつ。あのコピペはけっこう好きだったんだけどちょっと見つからない。