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先日多磨墓地に墓参りに行った。多磨墓地じゃなくて多磨霊園が正しい名称だが、幼い頃から多磨墓地と呼んでいたので多磨霊園という呼び方は未だにしっくり来ない。けど、今は西武多摩川線の駅名も多磨墓地前から多磨に変わってるんだなー。時代は変わる。もっとも、駅前のほんの申し訳程度のアーケードなど、おおむね昔と変わっていなかった。前回墓参りに行ったのはたぶん祖父が亡くなった後の法事のときなので、二十歳かそこらのとき。当時の俺は某ゲーム雑誌に投稿しまくっていて、「祖父の葬式の坊さんがサーファー坊主で日焼けにピアスだった」みたいなネタを送った記憶があるので、二十歳くらいと考えて間違いない。こういう思い出し方もどうかと思う。


墓参りの後、家族で昼食を取り、色々話す。自分の祖先の話というのはルーツ話として非常に楽しい。うちの墓にはなぜか上杉笹の家紋が彫られていて、うちは元を辿ると上杉と縁があるのかと都合のいいロマンを親父と楽しむ。しかし、うちの祖先は曾祖父が明治の初めに東京に出てきて、その前は大分の方の寺だったらしいので、上杉はちょっと遠いんだよな。まあ家系図もないし曾祖父の時点ですでに分家だから妄想は自由に楽しむ。


それ以外にも色々歴史話をしていたのだが、親父が持っている地図帳の話を少ししたときに、母親が「googleみたいなの?」と言い、あらためてネットの浸透度を実感する。うちの両親はネットは最小限の情報収集以外には全く使っていないが、だからこそそういう人たちへのネットの情報の浸透度が計れて面白い。前にちょっと驚いたのは、MXテレビで夕方にやっている岩井志麻子とかが出てるワイドショーの録画を見ていたときに、誰かのブログが炎上したニュースを取り上げていて、それを見ていた母親が「炎上したのは〜だからじゃない」とかさらりと口にしたときだった。炎上とかさらりと言ってるよ、おい。しかも、炎上する側に問題があったという認識だし。一昔前のステロタイプな「非ネットの人のイメージ」だと、炎上という現象が発生するネットの環境そのものを怖がるような態度こそが典型に思えていたが、やはり時間がたてばそんな認識も古くなるということか。ネットの使用の有無にかかわらず、ネットの存在そのものはすでに日常であって、その中にいる人も同じ人間だという認識は無意識に浸透しているのかもしれない。むしろ、ネットの側にいると自認してしまっているような人こそそういう浸透に対して鈍感になってしまうのかもね。