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ちょっと前に『らき☆すた』の最終回を見た。EDの『愛はブーメラン』が鐘の音まで入っていてオマージュしていることをとってもわかりやすく示しているのが露骨である意味親切だなと思った。しかし、あれ見て素直に喜んでしまう30代オタクはある意味で業が深いよな。ネット上での色んな反応を見てて、たぶん若い年齢だろうと思しき人による掲示板への書き込みで「現実へ帰れなんて言われなくたって見終わってテレビ切ったら現実だよ」というものがあったが、確かにそれもその通りで、現代オタクの消費共有的なはしゃぎぶりにはその一方でそれが空騒ぎにすぎないことを半ば自覚した、醒め切った諦念みたいなものが潜在しているのかもねとちょっと思った。


けっこう前からニコニコ動画を見るようになって、あるときふと思ったことなのだが、あの擬似実況システムは実際の書き込み時間の時系列はそれほど重要ではなく、実際には3年とかの長い間が空いていても(そこまでサービスが存続するとして)、動画上に流れるやり取りではまるでリアルタイムに言葉を交わしているように見えてしまうわけで、それはつまり双方向なやり取りに「見える」というだけであって、実際にはどれも一方的に言いたいことを言っているだけでも大差ないということだった。つまり、コミュニケーションはあまり重要じゃないということ。極端な話、世界に自分一人きりになった世界で自分以外の書き込みは全て自動スクリプトだとしてもいいわけで、そんな世界でたった一人最後に生き残った少年がニコニコ動画で「とかち」とか「きしめん!」とか「ミッキー切ったりミッキー切ったり」とか書き込んでいる姿を想像するとちょっとうっとりするものがある。


そう言えばずいぶん昔、まだテレホタイムが存在していた時代に、「実際の書き込み人数」を表にしたコピペがあったことを思い出した。ピークの0時前後で10人くらいで、テレホ外のところは「自動スクリプトによる書き込み」みたいなことが書かれてるやつ。あのコピペはけっこう好きだったんだけどちょっと見つからない。