Game Players Conference 2005 NAKANO

GPC 2005 とか適当に名前をつけてみたが、ようするにその実体は俺ひとりの脳内会議なのだった。また君か。@d.hatena - Game Consumers Conference 2005 TOKYOのもじりであるが、件の会議で三国志大戦はおろかアーケードの話題そのものが皆無に等しいのにいじけてるとか当てつけてるとかすねてるとかではなく、ちょっとここのところ漠然とゲームのことを考えていたのだけどさっぱりまとまらないのでメモ形式をパクろうという魂胆なだけだったりする。ひとりなのにPlayersってところにツッコミがあるかもしれませんが、ひとりで2コン側もプレイした経験のある人ならきっと理解できるはずでしょう。ということにしておく。
 

  • ゲームの最先端問題
    • 俺にとっては文句なしに三国志大戦
      • フラットリーダー筐体による独特のインターフェースを生かした新しいアクションゲームが実現している。なのにネットのゲーム論壇みたいのでは一顧だにされない。ほんと悔しい。
        • 遊んでみないとわからないという問題。テトリスがどれだけ斬新か、知らない人に言葉で説明できるか?
          • 遊ぶまでの敷居の高さ。特にアーケードの大型筐体は心理障壁が高い。
          • 例えば俺が小学生の頃はMSXしか持っていなくても山下章レスアベの単行本読むだけで興奮できた。あれは攻略と同時にゲームの魅力を引き出したレビューにもなっていた。
            • ゲームの魅力を伝える記事、それを書ける人材の不足?半ばパブ雑誌と化したゲーム雑誌の問題?
              • そもそも当時と違ってみなそこまでゲームに飢えていないのでそんな記事があっても読まれない、既存の興味にしか目が向かないという可能性。情報があふれて世界は狭くなる。
    • 人によって何が先端か変わってくるという意見。まったくだ。
      • ではなぜ、特定のジャンルの冠なしに「ゲームの最先端」を求めてしまうのか。そこで意味する「最先端」とは?
        • 「最先端にいる」という意識を持ちたい心理?RSSサイコー!的な?
        • とりあえず先に進みたいのがゲーマーのサガ?
          • ゲーム業界全体に漠然と広がる停滞感、閉塞感の存在。
            • 「かつてのブーム」(ブームの中身は人によりけり)の残滓。
        • 最先端=素晴らしいという素朴な近代的価値観?
          • 枯れた技術の水平思考」との対立は?信者論争は2chのゲーハー板でどうぞ。
            • つうかあそこの板で論争してる奴らってゲームやってる時間より板に張り付いてる時間の方が長そう。
              • ゲームに絡んだ話題で何かしら騒ぎたい、共有したい、盛り上がりたいという心理か?
              • 実際に何かハマってるゲームがあって話題の共有を求めるならそのゲームのコミュニティに行けばいい。たいていのゲームなら2chかどこかに話題を共有できる場がある。
            • 任天堂製のゲームのヒットはある意味「最先端」に対する一つの回答か?
              • でもどうぶつの森とか、人の記事読んでても今ひとつ魅力がわからない。コミュニケーション性(って言葉はどうか)が大きいようには見えるが。
                • →遊んでみないとわからない問題へ
                • コミュニケーション性が大きいゲームはtibiaでさんざんネトゲ廃人したからもうおなかいっぱいで魅力を感じてないのかもしれない。
  • X-BOX360などの新ハードについて。
    • ほんとどうでもいい。というか俺はソフトありきの人なので、プレステ・サターンのころからハード論争はピンとこない。
      • 欲しいゲームがあるなら全機種買っちゃえばいいじゃない。マリー。
      • ちなみにPS2はMMBB対応のZガンダムが出るまで買わなかった。そして百式モデルを買った。でもソフトは未だに5本か6本。
      • レステ・サターンのときはバーチャやってたからサターンだった。あと、SCEの姿勢にゲームへの愛情、面白いゲームを出したいという意気込みが感じられなかったのでプレステ嫌いだった。
        • でもジャンピングフラッシュ2はいいゲームだったよ。ポリゴン使う意義感じられたし。あれは完成度も高くて面白かったのにあまり注目されなかったな。そこそこ売れはしたけど。これもSCEのなせる業か。
          • ちなみにダイノバイザーつけてプレイするとかなりヤバい。友達が本気で酔った。
            • こういう思い出語るのってやっぱ楽しいな。これも後で別ツリー。
      • そういえば、ポリゴンがやたらともてはやされていたのも気持ち悪かった。道具じゃん、しょせん、と。道具ありきでそれに振り回されたゲームはほんとどうかと思った。
        • 某森ビル内にオフィスがあるところでテストプレイのバイトやったことあるけど、とある超有名横スクロールシューティングの続編のモニターアンケートで「短所:ポリゴンじゃない」とか書いてたやつみたときはほんと死ねと思った。
        • もちろん新しい技術を使うことが悪いという意味ではない。それはその技術じゃないと実現できないことなのですか?そしてその実現する内容の優先順位は高いのですか?という話。
      • とりあえず新ハードは、いつかハードごと買いたいゲームが出たら。三国志大戦がフラットリーダーコントローラーつきで10万とかでオンライン対応で出たら買うね。10万でも無理だけど。
  • ゲームのポストモダン化*1
    • けっこうこの記事自体はツッコミどころ多いというか、あなたがイメージしてる「古典的なゲーム」も「旧来のゲーマー」もあなたの固定観念で作り上げてるだけじゃない?という気が。
      • 要するに、新しいゲームについていけなくなったらそのゲームがポストモダンとも言い換えられそうな。
      • そもそも俺にはビートマニアポストモダン的という意見がさっぱり理解できないし。どこまでがモダンなんだろ。
        • この辺の感覚は、アーケードの人間とそうでない人との違いかもしれない、と書くと選民意識的だが、アーケードにおいては新奇なインターフェースをともなったゲーム自体が昔から今に至るまで出続けていて、ビートマニアもその文脈の一つとして捉えるとある意味「正常進化」(by水ピン)。
    • とりあえず、「かつてのブーム」の先の風景をポストモダンと考えてみる。黎明期は終わった
      • ここで「旧来のゲーマー」が求めてるのは、実際のところゲーム内容ではなく、ゲームを取り巻く人々の熱狂じゃないのか?という疑問。
        • 例えば、発熱地帯 - お金をかけずにゲームマニアでいられるようになった時代でいう「ゲームマニア」って実質は「元マニア」じゃないの?というか。自意識だけはマニア。
          • そんな人たちにとってはポストモダンなゲーム世界はつらいだろうなとは思う。けどはっきり言っちゃえばそこまでゲーム好きじゃなかっただけなんだよ、とも思う。怒られそうだけど。
            • 余談になるけど冠なしの大文字のオタクにおいてもあと数年でそういう人が溢れてきそうな気がする。旧世代でそういう人はいっぱいいるけど。次世代失オタク問題。
      • もしも、「かつてのブーム」ではなく「かつてのブームの記憶」が求められているなら、温故知新的な、懐かしい、でも、新しい、というゲームがヒットする余地はある。
        • そしてそのゲームが極めて意識的に過去のゲームを対象化した上でその断片を散りばめてかつ今のハードだからという要素を持って作られれば、まさしくそれこそポストモダン時代のゲーム。飯野あたりがここはぜひ!レイヴはもういいだろ!ってまだ言ってんのか知らんが。
    • そうそう、先週末ずっとステッパーズ・ストップのゲームやってたけど、この人のゲームは極めてポストモダン的だなと思った。
  • ゲームの今を語るより思い出話の方が楽しいね問題
    • やっぱ今は「最先端」も見えなくなってるしね→最先端問題の項へ
    • てか、今を語るのと思い出を語るのは別レイヤーな気もする。
      • 思い出は歴史化されていて、個々のゲームの評価も定まっているため、ネタ化しやすい。
        • あと、ネットではそうした歴史化された昔のゲームやマンガのネタの伝播がこの数年でかなり進んでいる。
          • マンガだったら80年代から90年代にかけてのジャンプ黄金期マンガの個々のネタ
            • 実はリアルタイムで共有してなかったけどネタの部分だけ楽しんでるって人も多そう。ガンダムセリフとかはけっこうそれあるし。
              • で、そうやってネタ共有され、反復・反響することでさらなる共有が広まる。結果、「今」は不利になる。
      • それはそれとして、純粋に過去を語る楽しさ。
        • 経験が浅くて刺激を感じやすいころの記憶が呼び覚まされるからか。
          • つまり、共有できなくても問題ない。
            • 例えば、俺が小学生の頃、家でひとりMSXのウォーロイドで機体が球体になる裏技使って延々と数時間、63万点くらいまで遊んでたら日が暮れたなんて話、誰と共有するわけでもない。でもこうやって書いてるだけで俺は楽しい。
              • でもこういう話は昔からのゲーム好きなら似たり寄ったりだから共有できちゃうのかな。俺の中ではウォーロイドと裏技使用がなぜかツボなんだけど。
    • まあ、「今」も「過去」になれば、ネット上で伝播されて共有されるかもしれんね。だって、元ネタろくに知らなくても「えいえんはあるよ」とか言っちゃうし。
  • 閉会の辞
    • 宴もたけなわですが、いいかげんこんな時間なのでそろそろ切り上げたいかと思います。みなさまお楽しみいただけたでしょうか。
      • 俺は楽しかったです。
        • アナザーステージはコメント欄にて可能です。
          • 威勢のいい反論のある方は必ず頭に「私自らが出る!」と一言添えてください。
            • ついでに変なお姫様もさらってSMプレイをするといい感じです。声はもちろん一人二役で。
              • そういえばアーケード全般の話とかも書こうと思ったのに忘れた。
              • あと、オタクとゲーマーの境界線とか。
                • そのへんはGPC2006にて。乞うご期待。
                  • おやすみなさい。

 
追記:コメント欄にてhally氏とやり取りをしたが、その上で改めて、「ゲームのポストモダン化」が古株ゲーマーにとって居心地のよくない世界だとする見解に対してははっきりと異議を唱えたい。ゲームを長きにわたって遊んできた人なら、あらかじめ意図された目的やそれに付随する楽しみとは離れたところでゲームの中から自由に面白さを見出した経験が一度はあるのではないだろうか。ゲームはgameであると同時にtoyでもあったのではないだろうか。例えばアクションゲームにおいて、プレイヤーキャラの死に方が面白いからと、わざと何度も何度もプレイヤーキャラを殺しては笑ったりしたことはないだろうか。
 
はっきりと言うと、コスティキャンのゲーム論にも、Juulのゲーム論にも、自分は何ら価値を感じていない(もちろん、価値を感じる人たちを否定するという意味ではない)。一プレイヤーとして大切なのは、それが定義に沿ったものかどうかなどではなく、「面白い」かどうかという感覚だからだ。ゲームとして提示されたものに面白さを感じることができたなら定義にかかわらずそれは面白いゲームだ。両者の論文でそれぞれ「玩具」「ボーダーラインケース」と示されている「シムシティ」がいい例だろう。そして、そういったゲームに触れたとき、多くの人は「こういうゲームもありだな」と自分の中の「ゲームの定義」を拡大させてきたはずだ。
 
もちろんそうした定義の拡大について行くには限界があるのかもしれない。しかし、20年以上に渡ってゲームを楽しんでこれた、真に古株ゲーマーと呼べる存在ならば、定義の拡大・変化など今さら恐るるに足らないのではないかと思う。そして、もし自分がゲームをプレイする情熱を失ったとしても、安易にゲームの変化という外的要因に結論を求めずに、それ以外の要因はなかったか率直に考えることができるだけの潔さは失いたくない。長きにわたって楽しんできたゲームに対して「お前が変わったのが悪いんだ」とばかりに後ろ足で砂をかけるような気持ちで離れていくのは哀しいことでしょう?

*1:コメント欄でhally氏とやり取りをしたのでそちらも参照。ここの記述は最初に当該記事を読んだときの見解として変更せずに残す。また、やり取りをした上での追記を加えた。