本日の俺脳内投げ銭会議その2

色々考えていて思うこと。日常必需品ではないモノの価格設定というのは、そのモノの価値の提示という側面が強くて、それを適正かどうかという尺度で捉えようとするのは、一つの価値判断でしかない。だから、絶対的な「適正価格」を求めてしまった場合、それは価値観闘争に陥るだけだろう。

その点で投げ銭の場合はコンテンツの送り手が価格を設定することなく、受け手による価格の価値観を甘受するだけなので、平和と言えば平和でいい。ただ、周囲の評価に影響を受けやすい人にとっては気苦労が絶えないかもしれない。

投げ銭ではない、コンテンツ作者がネット内で完結して対価を受け取るシステムを考えたときに一番の困難となるのは、コンテンツの送り手が自らの価値判断を公に示さなくてはならないことだろう。しかも、現在一般的なネットコンテンツの価格は0円だ。この環境の中で自らの価格を設定するには、それだけの覚悟がいる。これが例えば小劇場系の芝居なんかだった場合は素人同然の集団でも「うちらだったらこの辺の小屋で、それだと価格はこんなもん」という具合に気軽に価格設定をできるが、ネットのコンテンツで自ら価格をつけるのは相当にタフさが要求されるなあ。

まあ素人同然の集団による小劇場での芝居の場合は、観に来るのも身内が大半だし、コンテンツに対価を支払うというよりは、金かかって大変だからと寄付に近い感覚でチケット代を払ってくれる人も少なくない。芝居をやっていた人なら「観には行けないけどチケット一枚買ってやるよ」と言われたことが一度はあるんじゃなかろうか。そう考えると、あれも精神としては投げ銭に近いのかもしれない。

うーん、禅問答。吉村秀樹