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インターネットの片隅らへんの世界で定期的に人気を博す承認関連の話題にちらほら目を通した。私事でそうした承認問題の格好のサンプルのような人間がいて、そいつのゴタゴタに巻き込まれたりして疲弊していたせいもあって、「承認問題に対してシリアスな人々」については、そいつというフィルターを通した上でつい見てしまうんだが、それを抜きにしても思うところが色々。


さっきふと思ったのは、承認うんぬんの話題が全般的に一般論的に扱われているなあということ。「個人的な問題は社会的な問題」というより、「最初から社会的な問題」みたいに見える。昨日、人とちょっと話題にしたときに思ったのは、承認問題の人たちは「どのような土地で、どのような人と過ごして育ってきた」が希薄に感じられる、「自分は○○年生まれの日本人です」くらいの漠然としたくくりしか持たなそうな人に見えるとか、「無記名の一般的な町」で育ってきたかのような人に見えるとかそんな感想だったんだけど、その辺をひっくるめて考えると、ここで問題にされてる「承認」っていうのは、言外のうちに「曖昧模糊としたある程度大きな場からの承認」という風に共有されていて、始めに自分ありきではなく、自分を規定する視線ありきなんだろうなと感じられる。俺が一連の記事を見ててそう感じるだけかもしれないので実際に彼らの内面でどうなってるかはわからないが。


まあ、個人的な意識や世界観に照らし合わせるとわりと他人事なんで、「みんな今はあまり夏目漱石とか読んでないのかなあ。読んでいても『読んだ』で終わりにしてしまっているのかな」とか、「自分がどう生きてきて、どう生きて、どう死にたいかということを考えれば自ずと帰結する問題でしかない気がするんだがな」くらいでしかないというのもまた正直な感想だったりする。


とりあえず私事の件が完全に落ち着いて整理できたらその辺含めてまた何か書くかも。