オムライス 芋虫 一酸化炭素

海外に引っ越していった人から、上の三つを使った文章を書けというお題を出されてしまったので餞別代わりに。

 
  
洋食屋さんでオムライスと言えば、それはある一定以上の年齢の人々にとっては一つの憧れであったことは間違いのない話であり、ファミレスいわゆるファミリーレストランという今ではファーストフードに毛の生えた程度の価値しかない飲食チェーン店がそのメニューの看板の一つにオムライスを掲げていたことからもよくわかるだろうと思う。
さて、ここに一人の男がいた。彼もまた一定以上の年齢の人々の一人であることはその見た目からも明らかであった。手に大がかりな荷物を抱えた男は、古びた扉を開け、人気のない薄暗い店内へと入った。入り口には無造作にスポーツ新聞が積まれ、店の奥にはNHKの相撲中継を退屈そうに眺めながら煙草を吹かすくたびれた老人の姿が見えた。
男が席に着くと、くたびれた老人が水を持ってやってきた。
「注文は何にします?」
「オムライス」
まだ男が少年だったころこの店は開店し、昼も夜も多くの客で賑わっていた。幼い少年は祖母に手を取られて店に訪れ、お子様ランチを食べた。本当はオムライスを食べたかったのだが、祖母の「ぼうやにはまだ食べきれないからね。大きくなったら食べていいよ」という言葉によって、不承不承オムライスをあきらめ、お子様ランチを食べたのだった。
その祖母も数年後に亡くなり、男は高校卒業とともに上京し、結局オムライスを食べることができずに今日まで至っていた。あれから二十年以上、かつてはハイカラでオシャレだったこのお店も、今となっては古ぼけた潰れかかりの寂しいお店へと様変わりしていた。まるで俺のようだ、と男は思って口元を軽くゆがめた。笑ったつもりだったが、もう笑い方すらも忘れたその顔の筋肉は、笑うことすら許してくれなかった。
「あいよ、オムライス」
そんな思い出をかき消すかのような、ドン、という乱暴な音とともにオムライスが無造作にテーブルに置かれた。何の感慨も感じられない、どこにでもあるような普通のオムライス。無感情な目つきでそれを一瞥すると、男はスプーンを手に取り静かに食べ始めた。
日もだいぶ陰り、店内はますます薄暗くなり、テレビの光だけが周りを照らしている中、男は黙々とオムライスを食べ続けた。味はよくない。ケチャップの味ばかりがして、米はところどころ固くなっている。それでも男は黙々と食べ続ける。ただ無心に。テレビの音と、スプーンが皿に当たる音だけが静かに響き渡る。
半分ほど食べたあたりで、男は手を止めた。明らかに奇妙な物体がスプーンの上に乗っている。五センチほどの細長いその物体は、茶色く変色していたが、どう見ても芋虫にしか見えない。気づいた瞬間に吐き気がこみ上げてくるが、それを押しとどめながら男は店主を読んだ。何度か呼んでようやく、めんどくさそうな表情を隠そうともしない店主が近づいてきた。
「んー?ああ、こりゃあ芋虫だねえ。あんた大当たりだよ。あっはっは」
悪びれもしない店主のその言葉に、男も思わず声を出して笑った。口元をゆがめただけとは違う、もう何年も経験していなかった本当の笑顔で、男は高らかに笑い、おもむろに荷物を手にして席を立った。もうこれ以上オムライスを食べ続ける気はなくなっていた。
「六百五十円」
席を立った男を見るなり店主がそう言い放つ。芋虫が入っていようと関係ないとばかりの声だが、男は何も言わずに財布から金を取り出し、おとなしく支払いを済ませた。
「毎度あり。またいらっしゃい」
店主の言葉に小さくうなづくと、男は店を出て歩き出した。すでに日は落ちて、辺りは暗い。街灯もまばらで車の一台すらも通らない道を、男はゆっくりと歩いていた。
十五分も歩いただろうか、男は鉄条網をかいくぐり、工事現場の中へと入っていった。かつて男が住んでいた家は跡形もなく消え失せ、工事が中断されてそれっきりになったその現場には、廃材や鉄くずが無造作に散乱している。男はむき出しのコンクリートと鉄骨で囲まれた吹きざらしの現場に腰を下ろすと、荷物を開き始めた。そこには練炭とビニールの幕が入っていた。男はビニールの幕で周囲を囲うと、床に置いた練炭に火をともした。練炭がかすかに赤くなり、熱と悪臭を感じる。
一酸化炭素は無味無臭だと思ったが、練炭は悪臭を発するんだな」
そんなことを思いながら、男は静かに意識を失っていった。