的を得る

はてなキーワードの「的を得」にものすご〜くもやもやっときてしまったのだが、大胆に直していいのだろうか。いつの間にかはてな市民になったことだし。でも、キーワードってうかつにいじるの怖いし、俺が支持している「的を得る」についての考え方はこのキーワードと真っ向逆だしなあ。無駄に不毛な争いをしたくないから迷う。ちなみに俺が支持している考えは以下。

この「的を得た」という表現をあげつらって、“「的を得た」なんていう子供なみの日本語の間違いを堂々とHPに載せているくせに、よく他人の非難ができる”などと書いている掲示板があります。これはよく流布している無知からきています。射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。たとえば、“[中庸、十四]子曰く、射は君子に似たる有り。諸(こ)れ正鵠を失するときは、反って諸れを其の身に求む。(平凡社『字通』白川静著)”と「失する」という表現をしています。「失」の反対は「得」であり、「射」ではないのです。そうでなくても、もともと「得」という字には「あたる」という意味があります(白川静の前掲書)。いつのまにか「正鵠」という分かりにくいことばを使わず「的」に省略し、「的を射る」という悪貨が「的を得る」という良貨を駆逐していて、日本の国語辞典にも浸透しています。「的を得る」という表現は、日中出版『論語の散歩道』重沢俊郎著(p.188「それが的をえていればいるほど」)や、大修館書店『日本語シソーラス』山口翼編の「要点をつかむ」という項目にもあります。また小学館の『日本国語大辞典(12)』にも「まとを得る」があり、中国文学の京大助教授・高橋和巳の小説から「よし子の質問は実は的をえていた」を引用しています。
 また読者から教示していただいて分かったのは、現代の中国でも「正鵠を得る」という表現があることです。王鳳賢著の中国語論文「毛澤東的倫理思想及其傳統文化背景 」に、人人皆得其正鵠矣(じんじんみなそのせいこくをえたり)と(ちなみに明治書院の漢文大系『中庸』には正鵠に(まと)という読み仮名をあてています。)。
http://www.people.com.cn/BIG5/shizheng/8198/30446/30451/2210697.html 
 教示に刺激されて調べたら、幸田露伴の『武田信玄』の中の一説に「無事(ぶじ)の世(よ)に於(おい)てさへ正鵠(せいこく)を得(え)ぬ勝(がち)である……」とありました。
http://www.j-texts.com/rohan/shingenr.html
 わたしは「正鵠を射る」や「的を射る」という表現を誤っていると言っているのではなく、たんに「的を得る」という表現がまちがいである、ということに抗議しているだけです。ことばは生き物です。時代によって変化するものであることは承知しているつもりです。それと「的を射る」という表現は即物的でつまらないなあ、と思うのです。
つうか根本的な話として、言葉の誤用ってどこからが誤用だよ、とつくづく思う。全然+肯定系だって、一時は誤用呼ばわりされていたけど、過去の小説などでその使い方がなされていることが広まったら誤用じゃなくなったし。結局、「お前間違ってるよ。そんなのも知らないの?」というあげつらい文化のダシに使われているだけにしか思わない。しかもそういったあげつらい文化ってのは今に始まったものじゃないからタチが悪い。


「正しいもの」なんて消えてしまえばいいのに、とすら思う。