ホワイトバンドってさ

いざ実生活で見かけてみると、そこに垣間見える自意識が気持ち悪く感じちゃうんだけど、これは俺がホワイトバンドのことを知っていて、かつ、その運動に違和感を持っているからなのかな。

なんつか、認知の低い、知らない人から見たらただの白いわっかにしか見えないものを目立つところに身につけて、知っている人の間だけで「あ、あの人もホワイトバンドしてる」みたいに仲間意識のようなものを共有しあうってのが俺にはとても気持ち悪いや。(たとえ彼ら彼女らにそうした意識がなかったとしても)

ちょっと考えていて改めて気づいたのは、ホワイトバンドというアイテムやそのバックグラウンドにあるイデオロギーがどうとかいう以前として、気分を媒介とした薄く広い共有関係を作って、その圧力によってあるイデオロギーを浸透させようという手法が俺は大嫌いみたいだ。

せめて、共有されるのが気分なんかでなく、議論に支えられた強靭な理論とかだったらまだいいんだけどな。

追記:
なんで気分を媒介とした薄く広い共有関係が嫌か、端的に言えば、そのような気分の集合体は風向き一つで人を疎外するようなものになり、それはいつ自分に向くとも限らないからです。

ブックマーカーを射抜く視線

はてなブックマークで大勢の人がブックマークした記事ばかりブックマークしている人ってちょっとさ・・・」みたいな感じの文章を以前どこかで目にして、そのときは「まあ確かになぁ」みたいに思ってしまったのだが、よくよく考えてみると、あんなもの好きなようにブックマークすればいいのだから、そのブックマーク群をもってその人物を計るという行為もなかなか危険だなという気がした。注目エントリーのみを後で読むためにブックマークしている人もいるかもしれないし。


あくまでもそこに浮かび上がるのは「その人のブックマークの傾向」であって、「その人の傾向」ではない。


とは言え、ソーシャルブックマークに限らず、限られた断片的な情報から人物を計ってしまうのはどうしても避けられないわけで、戒めておくべきは、「それが全てではない」というのを忘れないことなんだろうなあ。