オリジナリティを希求するレプリカントたちの叫び

明確な根拠や裏付けはないが、パクリ騒ぎに見られるヒステリックな態度は、オリジナリティを得ることができずそれゆえにオリジナリティという概念を過度に美化するレプリカントたちが、オリジナルを標榜する者たちへの二律背反の憧憬と嫉妬の感情を爆発させた結果であるように見える。ここではオリジナリティを有するとみなされた存在は崇められ、そして、オリジナリティを標榜しながらそれが偽りであったとみなされた存在は許し難いペテン師として攻撃される。
 
先日、サイコドクターぶらり旅の風野氏の文章が「ブラックジャックによろしく」に一部改変された形で無断利用されるという出来事があったとき少しだけ触れたが、最初に風野氏が類似に気づいて記事にしたとき2chから殺到してきたと思しきコメントの大半が風野氏を非難する内容だった。そして、そこには「素人の一ブロガーごときがちょっと内容が似ていたくらいでオリジナリティを標榜するなどとはおこがましい」という論調のものが多数見受けられた*1。この件と、末次氏の件とを照らし合わせると、以下のような規範意識が導かれる。
 
「プロとはオリジナリティを有した存在であり、剽窃行為*2は許しがたい。また、素人とはオリジナリティを有しない存在であり、オリジナリティを主張することは許しがたい」
 
なぜここまでに「オリジナリティ」という概念が過剰に重要視されるようになったのかはわからないが、20年以上前から「個性は大事だ」「日本人は個性がない」などの言説が定義も曖昧なまま無根拠に支持されてきたことと無関係ではないと想像できる。また、商業的なイメージ戦略のために安易に用いられ続ける「クリエイター幻想」も影響しているだろうし、やはり商業的な利益のために無制限に拡張されかねない動きを見せる、著作権特許権の問題も影を落としているだろう。そして、共同体の力が弱まり帰属意識の行き先を見失う一方で強い「個」を確立するすべを持たない人々が都合の良い離合集散を繰り返す情勢も大きく影響しているように思える。
 
いまや「オリジナリティ」とは選ばれた人しか有することの許されない、支配のための特権的ツールに変わらんとしているとも言える。いや、そもそもこの国にそんな概念はなかったし、もしかしたらその概念が輸入された当初から(自覚していたか無自覚だったかに関わらず)支配のためのツールとして用いられていたのかもしれない。だとすれば、今起きている出来事はあまりにも皮肉にすぎるのだけれど。
 

*1:ちなみにこの一件自体は後日、風野氏がモーニング編集部に連絡を取って、編集部がすんなり非を認めたことによって収まった

*2:もちろんここに明確な基準はなく、恣意的な判断によって行為は認定される。模写はよく、トレスはダメなどと。